厄年と健康<後編>

まめ知識
厄年と健康 後編

前回に引き続き、「厄年と健康<後編>」をお届けします。

厄落しの方法

地域によっていろいろですが、一般的には次のようなものがあります。

厄落しの方法

お祈り

○地元の神社で御祈祷の後、御札をもらう
○神社に参拝する(祈祷を受けなくても構わないそうです)
○参拝時、手ぬぐいや櫛など身につけているもの又は小銭を落とす
○酒宴を開く


※本厄の時に親戚や友人を招いてご馳走をして、皆に少しずつ厄を持って帰ってもらい、災難から逃れようという風習。祝儀を持っていく場合、表書きは「厄祝」です。

厄除けの品

厄除けになる品物として長いものやうろこ模様のものを身につけるという習わしがあるようです。 それは、うろこ模様は蛇や蝶を連想して、脱皮を表し、再生を意味するもので厄年が生命力の再生の年であったと信じられていたといえます。

★ 厄除けの品 ★
 「ベルト」・「うろこ模様の財布」・「帯」

不調のキーワードは厄年

不調の女性

さて、厄年は本当に災いが起こる年で、その災いは避けては通れないものなのでしょうか?

『「更年期の夫」とつきあうレシピ』の著書に、ある大学教授の話が載っています。「男性更年期」に近い症状を体験した教授は、何が原因かを考えたところ、数え42歳の厄年だということに気付いた・・・と。

単調な日々の繰り返しの中で、異変が起きて初めて自らの生活を顧みる・・・病気や事故が起きてからでは遅いのです。厄年は時代によりまた地域によりさまざまなものがありますが、現代も消滅せずに続いているということは、その根底に、人間にはバイオリズムがあり、生命力には起伏があることを認めているからと言えますね。

男女ともに人生の節目と考えられる厄年は同時にホルモンの影響も受けていると考えられます。(特に女性はホルモン分泌量が変動しやすい時期と重なっています)

男性の本厄である42歳前後は社会的な役割が大きくなり、今までと違い疲れが残りやすくなります。
また、女性の本厄である33歳前後は出産や子育てなどで精神的にも肉体的にも疲れている時期であると考えられます。

厄年は生命力のさらなる成長

ヨガ女性

身体のバイオリズムから考えて、心身のバランスが崩れやすい年だといえます。
厄除けの品とされているうろこ模様は、蛇や蝶を連想して脱皮を表し、再生を意味するもの。
厄年は災いが起こる年ではなく、自らの生き方を改める生命のさらなる成長の年だと信じられていたのでしょう。

この時期は、今まで気にも留めていなかったであろう自分の身体をいたわってあげること、病気・事故・大失敗を起こさないように細心の注意を払うことが大切です。

そのためには、食事や睡眠など、基本的な生活の乱れを起こさないようにすることが大切です。食事はバランスよく食べ、しっかり睡眠をとりましょう。また、腹式呼吸などで深い呼吸を行なう事で頭と身体がシャキッとします。
日常のほんのちょっとした努力が厄年から身を守り、健康に過ごすことが出来るのではないでしょうか?
厄除けとして神社等に参拝することにより、今の生活に感謝をして自身の生活や身体を見つめ直し、改める良い機会として厄年を利用したいものですね。

厄落しって本当に効果があるの?

厄落としの方法としていくつかお伝えしましたが、それは本当に神仏に届いているのでしょうか?
とんちで有名な一休さんのおもしろい逸話があります。


一休さんが、熊野神社の前を通ったとき、念仏阿闍梨という、お徳の高いお坊さんがジッと呪文を唱え、九字(呪文を唱えて印を結ぶ護身法のこと)を切っていらしたのですが、通りかかった一休さんは、 「おかしな真似をしているぞッ、一つからかってやろう」 と思って、

「お前さん、いま、神様の前で、おかしな呪いみたいなものを、唱えていたが、あれ、何になりますか」 というたら、阿闍梨さんが一休さんに 「私は、あんたを、今日は泊めてあげようと思う」というた。 「泊めてもらいましょう」 と一休さんがいうて、それからついて参りますと、庵のそばでヒョイと、念仏阿闍梨さんが、一休さんを見て、 「私は、あんたを、泊めてあげようと思うて来たけれど、なんじゃら、泊めてあげるのが、イヤになって来た。帰りなさい。」というた。一休さんが 「帰りましょう」 と言って、別れたそうですが、一町ほど行ったころに、阿闍梨さんがポンポンと手をたたいて手招きをやっておったので、一休さんは、また呼んでるワイと思って戻って行きましたら、念仏阿闍梨さんが、一休さんに、 「なぜ帰って来なさった」 「なぜって、あんた呼んだじゃありませんか」 そうしたら、一休さんに、 「あんたでも、これ(拍手の手ぶり)通じましたか」

これで、一休さんの負けなんだそうです。熊野神社の前で、一休さんが「あんなことをして、なんぞの呪いになりますか」と言った、阿闍梨さんの返事がこれなんだそうです。あんたにでも通じるぐらいだったら、神さんの前で呪文を唱え、九字を切るのが、みな通じとる、というのだそうです。

見えない世界というのは実は私達が分からないだけであって、神様や仏様には見えているのかも・・・!?